スティエパン・ラディッチ(Stjepan Radić、1871年6月11日 - 1928年8月8日)は、クロアチア人の政治家。クロアチア共和農民党(のちクロアチア農民党)を組織した。

生涯

1871年、クロアチア(当時はオーストリア・ハンガリー帝国領)のシサク近郊で生まれた。1904年、兄(Ante Radić)とクロアチア共和農民党を結成し、ハンガリー支配に対して抵抗した。

第一次世界大戦後は、セルビア人主導の中央集権的な南スラヴ国家形成に反対し、分権的・連邦主義的な南スラヴの統合を主張した。しかし、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちユーゴスラヴィア王国と改称)においてセルビア人主導の集権化が進められたため、ソヴィエト政権への接近を図った。これに対して政府は1925年にラディッチら共和農民党員を逮捕した。獄中のラディッチは急進党のニコラ・パシッチと妥協、中央集権的な憲法(ヴィドヴダン憲法、1921年制定)を認め、党名から「共和」を外した。その上で釈放後はパシッチと連立政権を発足させたため、クロアチア人の一部から支持を失い、ふたたび野党に転じた。

1928年6月20日、議事録で用いられる文字を、クロアチア人などが用いるラテン文字にするか、それともセルビア人などが用いているキリル文字にするか、国会で審議が行われていた。その最中に急進党のプニシャ・ラチッチが、ラディッチらクロアチア農民党の議員に対して発砲。甥のパヴレをはじめ2人が犠牲となり本人も重傷を負って、その傷がもとで8月8日にザグレブで死去した。この1928年議会内暗殺事件を切っ掛けとして民族対立が激しくなり、翌1929年には国王アレキサンダル1世による独裁体制(1月6日独裁制)が成立することになる。

クロアチアの200クーナ紙幣に肖像が使用されている。

参考文献

  • 柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史・18)山川出版社、1998年。ISBN 978-4-634-41480-8
  • 柴宜弘・石田信一編『クロアチアを知るための60章』(エリアスタディーズ・121)明石書店、2013年。ISBN 978-4-7503-3851-4

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